嬰寿の命水 箱根大涌谷、月日背乗大涌蛇太郎様の伝説(2)
私の実家が営む和菓子屋の屋号は、「孫三(まごさん)」といいます。
「意味ありげな変わった名前だなぁ」とか、「孫が三人いたの?」なんて言われたりもしますが、屋号の由来は単純です。和菓子屋『孫三』は、私の曾祖父がはじめたのですが、実はその曾祖父の名前が瀬戸孫三郎(まござぶろう)という名前でありまして、自分で自分の名前を付けたわけで、深い意味はなかったと思います(笑)。
箱根は東海道五十三次の難所の一つとして旅人が行き交っていましたので、当時からそういった旅人相手のお店がありました。現在でも継続するお店として有名なところでは、「甘酒茶屋」や「きのくにや旅館」などでしょうか。
明治に入って関所が廃止されてからも、日本人要人や、外国人の避暑地として利用されるようになり、おそらく孫三郎もそのあたりを見越して和菓子屋を始めたのではないかと思います。
孫三郎は和菓子屋の他に、頼まれると旅人に箱根山の案内役もしていたそうです。当時は今のような自動車社会ではなかったため、歩きながら案内したとかで、登山などのお供もしていたそうです。
また実業家と呼ばれる人々が箱根という観光資源に目を付けて、少しずつ観光開発が進み始めた時期とも重なり、実業家の依頼も受けていたそうです。
そんな中、とある実業家から大涌谷の水源を探してほしいという依頼を受けたそうなのです。その依頼主とは、そう、あの西武グループの創始者である堤康次郎氏その人であります。軽井沢の開発で急成長した堤康次郎氏が次に目を付けたのが、箱根。堤氏は現在の箱根プリンスあたりの土地を買収しはじめ、ホテル建設に着手していくわけですが、そのホテル建設にはまず水源が必要です。どこかに良い水源がないかと、水源探索のための依頼が曾祖父に来たというのです。どういう経緯でそうなったのか、どうして孫三郎だったのか詳しいことは分りませんが、とにかく孫三郎はその依頼を受けて、仲間数人と箱根の山に入っていきました。
場所から考えて水源の候補として適している駒ヶ岳、神山、そして大涌谷あたりに目星を付けて水源を探しに出たそうです。
この水源探索の途中で、事件は起きたのです・・・。
緑深い山々をかけいって、おそらく駒ヶ岳から神山へ向かうあたりだと思うのですが、そこで孫三郎一行はなんとも異様な大蛇に遭遇したのであります。
その姿はあまりに異様で、あまりに異界で、一行は驚きおののきました。
大蛇は鋭い目で人間を凝視したため、あまりの恐怖心に、一行のある者が、こともあろうにピストルでその大蛇めがけて弾丸をぶち込んだのです・・・。
するとその弾丸は、人間を凝視する大蛇の目から入り、腰まで貫通したというのです。
大蛇は無慈悲な弾丸を受けて一瞬にして息絶えたわけですが、その後、そのピストルで射殺した人は三日後に亡くなったそうで、私の曾祖父である孫三郎は、それから15年以上もの間寝たきりになったと言います・・・。
(つづきは次回へ)
箱根路の大涌谷の蛇太郎は
富士(ふじ)山腹(さんぷく)え月日背に
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